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2012年10月17日水曜日

9月29日 『原発はいま』上映会報告


 9月29日という金曜日の翌日にあって、会話から放たれる「原発」や「再稼働」という言葉をこの車輌はどれほど運んでいるだろう。熱狂という名の群衆経験のインフラ整備はここにはない。車内と駅構内は無関心でありしらけ、無機質と静寂が空間を基調どる。構内の硬く平滑な盤をスケートボードが傷をつけるとき、いつもとは異なった建築利用が立ち上がる。
 

 地上。経産省前テントひろばにてドキュメンタリー映画、『原発はいま』の野外上映。乏しい資本の光と多くはない参加者、映し出される(不安定な)フィルムが場としての輪郭を与える。

 
 内容の一部。
生活地に街宣車が乗り付け、組合労働者の訴えとそれに耳を傾ける地元住民。この情景にデジャブ感がドライブする。一般的な認識法として、農村や漁村といった地域は都市とは逆に「人工」よりも「自然」が優位にあるとされる。その時代の労働がどれほど機械テクノロジーに依存していようとも、種まきや収穫、出漁日の決定は天候に大きく左右され、すべからく判断が裏目に出る時も断続的にある。ここでは人間が自然に調和あるいは従属してきた長い時間軸の中に重層的な生産体系が形成・蓄積される。そうした環境のなかにあって街宣車の登場とは、例えば田園風景を二トントラックが演歌を爆音で鳴らした末、果物を各農家に売りつけるように、遭遇した住民にとって娯楽とさえ なりうる/ある種のテキヤ主義的なものが前景化する、と思った。


 上映は新宿や渋谷といった場所ではない。消費者からデモ隊への身体の組変え/長距離走者が歩みを止め、別の移動の途を開始するといった社会的交通は見当たらない。
 占拠という語が運動ムーブメントの一つの意義付けや息吹を与える現況にあって、再領土化? 
炊き出しという生存空間はすでにその地に根を下ろし、排除を携えた制度は後からついてきただけであり、その逆ではない。また、便器に座ることが不可能な身体障害者は介助者と結託し、勤務警官を交番から締め出し、ポリボックスを公衆トイレとして使用する。移動する自由があると同時に、移動しない自由とできない不自由。「私」を含みこんだ公共で、当たり前(消去法的)の営為や知恵が存在し、実践していく生活(闘い)。
 街頭行動における解放感や自由という状態(主観)を疑い、その地平の熱を失ってから久しい自分にとって、本上映会は少なくとも一つのきっかけとなった。模索は続く(?)。

*当日は段取りが悪かったりで、不手際すいませんでした。経産省前テントひろばの方と参加者の寛容に感謝。ありがとうございました。



【ST】

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